ごん狐考察

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背景

本稿では考察を間違えると「社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている」と罵倒される、ごん狐について考察を行う。

今回は以下のサイトのごん狐をもとに考察するのでネタバレを懸念する方は一度、読み直してから、考察を見ていただきたい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/628_14895.html

時代と場所について

ごん狐の物語は、あるいは時代の経過がされた物語については、その物語の時代背景と、地域の特性を考える必要がある。

キリスト圏で、日本の多神教の考えをもとに物語を読んだら読み違えるし、現在の価値観で忠臣蔵を読んだらメンヘラの被害に遭った老人虐待の物語である。

 むかしは、私たちの村のちかくの、中山なかやまというところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。

まず、この文章により、中山という地域であることが確定する。
作者の新美南吉氏が愛知県半田市の出身であることより、その付近の地域であると予測がつく。
結果、尾張 中山城の付近の物語であろう。
https://www.hb.pei.jp/shiro/owari/nakayama-jyo/

次に時代背景であるが、これは、火縄銃の普及〜廃藩置県の前の時代であることが確定する。

何を煮たか問題

ごん狐では物語の序盤に大きな鍋で何かをぐずぐず煮ていた。

 こんなことを考えながらやって来ますと、いつの間まにか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、大勢おおぜいの人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭てぬぐいをさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな鍋なべの中では、何かぐずぐず煮えていました。
「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。

この回答を誤ると「社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている」とレッテルを貼られるので注意深く考える必要がある。

説としては以下の2種類が存在する。

  • 何らかの料理
  • 兵十のおっかあ

何らかの料理を煮てた説

現在の日本人の価値観においては葬儀に振る舞う何らかの料理を煮ていたと判断されうるものであるが、「何を煮ていたか」の問いに何らかの料理というのは解答にはなっていないと考えられる。

ここでは具体的に何を煮ていたかを考察する必要がある。

ごん狐が「ああ、葬式だ」と判断した基準の一つに、大きな鍋で何かを煮ていた描写があることより、これは葬儀に関係する料理の可能性が高い。

愛知県においては葬儀で「涙汁」と呼ばれるものを飲む風習があることより、「涙汁」が一つの可能性となる。
https://www.famille-kazokusou.com/guide/post-15.html

幸い、作中の描写にも唐辛子が存在していることは確認できる。

百姓家ひゃくしょうやの裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。

唐辛子を煮込んでいているのであれば、その刺激臭で、葬儀が行われていたと判断することは妥当であろう。

ただし、この涙汁が「大きな鍋なべの中では、何かぐずぐず煮えていました。」と言われた表現で作成できるものかどうかは尾張の人間でない私には判断がつかない。

兵十のおっかあを煮てた説

現在において、遺体を煮るということは考えずらいが、狐が喋る世界線において遺体を煮るという行為がそれほど間違った行為であるかは議論の余地がある。
実際、カチカチ山という狸が喋る世界戦では、人間を煮ていた事例が存在する。

ではなぜ、遺体を煮る必要があったかを考える必要がある。

  • 食べるため
  • 遺体の処置のため

食べるため

遺体を食べるという行為について、いくつかの合理的な理由が考えられる.

  • 飢饉で食べるものがなかったため
  • 宗教的儀式のため
飢饉で食べるものがなかったため

半田町史によると、何度か飢饉が発生していることが確認できる。以下の369コマ目を参照。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020258

しかしながら、作中で飢饉で食べるものがなかったとは考えづらい。
作中にイワシや栗などの食べ物が描写されており、村人が飢えていた可能性は低いと考えられる。

宗教的儀式のため

死者への愛着から魂を受け継ぐという儀式的意味合いは否定できない。
事実、日本においても「骨噛み」の儀式の存在する地域はあり、物語の舞台である愛知県にもその風習はあると言われている。
https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=1521

遺体の処置のため

遺体をお湯で洗い清める湯灌という処置は知られているが、前述の「ぐずぐず煮えていました」という表現には当てはまらないと考えられる。

では何人かの犯罪者がやったように遺体を煮て処理をしたとか、骨格を取り出すために煮たという可能性は否定できない。
前述の半田町史を読んでみたが、葬儀の文化については記載がなかったため、ここでは結論が出ない。

何を煮たか問題まとめ

いずれの説も確証が存在せず、少なくとも現在の価値観においては「何らかの料理を煮てた説」ことになるのであろうが、この場合、具体的に何を煮ていたかという問いに答えていないことになり、答えのない問題をどう考えるかという思考のプロセスや意見の調整を行うためには優れた問いであるが、この問いを間違ったからといって「社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている」されると問いとして適切であるかについては大きな疑義が残る。

なぜ狐が喋っているのか問題

ごん狐は狐でありながら、喋っている描写があるが、これが何故なのかを考える必要がある。

  • 狐語で喋っているのであり、人間と意志疎通はできない説
  • 物の怪の類である説
  • 実は狐ではなく人間だった説

狐語で喋っているのであり、人間と意志疎通はできない説

実は狐語で喋っているだけで、人間には通じていない説がある。
確かに、人間とコミュニケーションをしている描写はないので、この可能性はある。
しかし、以下のようにごん狐は獣でありながら火を操ることができる。

はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種なたねがらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家ひゃくしょうやの裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。

つまり、通常の動物を超えた能力を有している可能性があると考えられる。

物の怪の類である説

物の怪の類であるなら人語を喋るし、火も操ることが可能であると考えられる。
幸い、日本には狐火と呼ばれるものが存在するので狐の妖怪であれば使えても不思議ではないだろう。
ただし、それだけの妖怪が火縄銃で殺傷できるかについて疑問が残る

実は狐ではなく人間だった説

実はごん狐と言っているが、人間だったのではなかろうか?
森に住んでいる浮浪者だったが、火縄銃で人間を射殺したとなると問題になるので、村ぐるみで隠蔽を行ったのではなかろうか?
狐でなく人間であれば、言葉を喋れるし、火も使える、そして火縄銃で殺せる。

まとめ

今回は、ごん狐について考察を行ったが、「社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている」ので何を煮ているか問題については、明確な答えを出すことができなかった。
ぜひ、社会常識や人間的な感情への想像力が豊富な知識人の皆様には納得のできる明確な回答を教えていただきたいところである。